マイノリティ女性、複合差別と沖縄 ― 無国籍児問題から ―

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日本平和学会2019年度春季研究大会

 

マイノリティ女性、複合差別と沖縄

― 無国籍児問題から ―

親川裕子

(沖縄大学地域研究所特別研究員)

 

キーワード:無国籍児、混血児、国際児、国籍(法)、女性差別撤廃条約

 

 

はじめに

 日本におけるマイノリティ女性とは被差別部落、アイヌ民族、旧日本植民地出身者とその子孫、そして琉球・沖縄にルーツを持つ女性たちをさす。無論、マイノリティ女性(minority women) は単に数のうえでの少数者を意味するのではなく、人種や民族、言語や宗教などがマジョリティと異なることから被る差別や偏見に晒されてきた歴史を持つ女性たちを意味する。

 本報告では、日本におけるマイノリティ女性とされる琉球・沖縄にルーツを持つ女性たち(以下、「沖縄人女性」とする。)の歴史の中でもさらに周縁化されてきた「無国籍児」について取り上げる。特に、戦後の沖縄で無国籍となった子どもたちの国籍取得のため、法的支援を行った国際福祉相談所と相談員たちの活動について概観しながら、国内法整備への取り組みがどのように形成されていったのかを探る。

 

国際福祉相談所設立の背景

 スイスに本部を置く国連の外郭団体「国際社会事業団 International Social Service (以下、ISSと記す)はアメリカISS指導の下、1958年に任意団体「国際社会事業団沖縄代表部」(International Social Service Okinawa  ISSO)として当時の琉球政府に届け出、北中城村に設立され、1967年頃まで米人婦人クラブの物心両面のサポートをうけながら欧米スタンダードのソーシャルワークサービスを日英両語で提供した。

 1972年の復帰により、ISSにおける「一国一代表部」の原則によりISSOは消滅したが、国際福祉の需要は高く、復帰直前の同年4月に「国際福祉沖縄事務所」として法人認可を受け、事業を継続した。

 同法人が1980年5月に、児童養護施設「美さと児童園」を設置したのに伴い、組織を改め「社会福祉法人 国際福祉会 国際福祉相談所」(International Social Assistance Okinawa Inc. ISAO)に名称を変更し、米人婦人クラブをはじめ、特殊法人 日本自転車振興会(現 公益財団法人JKA)および沖縄県からの補助金を受けながら相談事業を継続した。以後、1998年3月に閉鎖されるまでの40年間で、およそ15,000件のケースを扱った。閉鎖後、相談事業は沖縄県女性総合センターに移された。

 ISSは14歳未満の児童の国際養子縁組を中心に、家族の再会、結婚、離婚、遺棄等に関することの社会的、法律的な援助と国籍取得、混血児童の特別援助などを、専門的知識と経験を積んだケースワーカーが無料で行っていた。

 ISSO設立以前、戦後の沖縄では民間の保育園(ハーフウェイ育児院 Half way Home 1955年設立)が孤児や混血児の保育と養子縁組の世話を行っていたが、専門的なケースワーカーがおらず支援が十分ではなかった。サンダース・ホーム(神奈川)で経験のあるケースワーカーを招き、ISSOを設置するに至った。(沖縄タイムス、1958) ISAOでは、専門のソーシャルケースワーカーによって、外国語による対応を要する国際結婚、離婚、養子縁組等の支援を行った。

 

国際児童年 ― 沖縄からの提言 ―

 ISSOが設立された翌1959年、国連は児童権利宣言を採択した。沖縄でも混血児(国際児)の実態やニーズを把握することを目的に中部地区社会福祉協議会は、管轄の14カ市町村を対象に各地域の婦人会の協力を得て、沖縄で初めての実態調査を実施している。1970年には、ISSOが琉球政府の後援を得て「混血児調査報告書」をまとめ、戦後20数年を経た当時、沖縄県には2,500人~3,000人の国際児がいると推定された。そのほか、父親が戸主の家庭は1割程度で、8割の家庭が母親や祖父母の元で生活し、家庭の戸主が無職である割合が3割いることなどがわかった。(大城、1998:127)

 本土復帰が間近に迫る中、ISSOへの相談件数は急増し、外国籍や無国籍など、国籍要件を満たさないために国民健康保険に加入できない、児童扶養手当が受けられないなどの問題が明らかとなり、関係機関や社会の関心が高まっていった。復帰後、ISSOは調査結果を「沖縄県の混血児 ― その現状と対策」(1979年)としてまとめ、県や国の関係機関への要請、陳情資料とした。(大城、1998:129)

 1979年、女性差別撤廃条約が国連で採択されたこの年は、児童権利宣言の採択(1959年)から20周年を記念した「国際児童年」の年でもあった。児童の権利への機運が高まる中、同年1月、当時、ISSO事務局長であったソーシャルケースワーカーの大城安隆は共同通信の取材を受け「国際児童年 ―沖縄からの提言―」と題した無国籍児の現状を発表し、共同通信より配信され、無国籍児の問題が人権問題として全国に知られるようになった。(大城、2001:16) 提言は「日本国の国籍法を改正して、無国籍の発生を無くすこと」を求め、国連児童権利宣言第3条に基づき国籍が付与できるよう、当時の現行法によって無国籍となる子たちの具体例を示しながら、人権の観点から国籍取得の必要性、国籍法改正の重要性を訴えている。

 

女性差別撤廃条約批准への波及

 日本が女性差別撤廃条約を批准するにあたり、国内法整備の過程で重要な議論の一つが国籍法における父母両系主義の成立であった。それまでの国籍法では、日本国籍を持つ父親から出生したときのみに日本国籍を取得できるとする父系血統主義を取っていた。

 終戦以後、米軍統治下における沖縄では、米軍人、軍属の男性と沖縄人女性との間に生まれた子たちは、父系血統主義を持つ日本と生地主義を持つ米国の両国の国内法規定により、いずれの国籍も取得できない「無国籍児」が存在した。

 女性差別撤廃条約批准への機運が高まる中、1984年に国籍法が改正され、子への国籍は父母のいずれかが日本国籍であれば取得できるとする父母両系主義となったが、背景には国内諸法の改正や制定、条約批准へ弾みをつけた前述の大城の提言があった。

 

無国籍児問題の根底にあるもの

 無国籍児、厳密には米軍人の父と沖縄人女性の母を親に持つ子は、1945年に米軍が上陸後、性暴力の結果、生まれている。戦後は特飲街の周辺で、危険を冒してでも物資の豊かな米軍に接近せざるを得なかった女性たちが、世間から蔑まれつつも貧しい家族のために生活の糧を得ようした結果でもあった。ISSO、ISAOでソーシャルケースワーカー、所長を務めた平田正代は「貧しい沖縄人のうえに戦勝者として君臨する豊かな米軍と、高等弁務官を頂点とするその絶対統治への不満や憤りが、非難や蔑みとなってこれらの女性たちに向けられ、さらにもっと弱者である混血児に向けられたのである。」と記している。(ケリー、1989:294) 

 近年、いまだ無戸籍者の問題が解決しない背景には、「貞操義務」を女性にのみ課す明治憲法以来の旧民法上の女性差別と、当時の沖縄と同様、「ふしだらな女たち」を救済する必要はないという社会の眼差しが存在する。一方で、無戸籍、無国籍になることで教育や社会保障など社会資源を得られる機会を奪われるのは子どもたちであり、子どもの権利の観点からも看過できる問題ではなく、早急な法整備が必要なことは論を待たない。マイノリティ女性の枠組みからも周縁化された人々、支援を行ってきた人々の取組みが果たした役割から今後に繋げる議論を模索したい。

 

参考文献

沖縄タイムス 1958年12月1日(朝刊)

社会福祉法人 国際福祉会 国際福祉相談所『創立25周年記念誌』、1983年。

大城安隆「国際児の抱える問題」、佐々木雄司(編)『沖縄の文化と精神衛生』弘文堂、1984年、67-88頁。

ケリー正代「国際結婚と児童の国籍―戦後沖縄における駐留米軍軍人・軍属と沖縄女性の結婚―」、新崎盛暉・大橋薫(編著)『戦後沖縄の社会変動と家族問題』、アテネ書房、1989年、294-304頁。

大城安隆「国際児の福祉」、『児童福祉法制定50周年戦後沖縄児童福祉史』、沖縄県生活福祉部発行、1998年、124-131頁

社会福祉法人 国際福祉会 国際福祉相談所「平成9年度 事業実績報告書」、1998年。

大城安隆「国際児に関する問題と対応の時代区分思案」、『沖縄地域福祉研究』日本社会福祉学会第49回全国大会開催記念号、沖縄地域福祉学会発行、2001年、3-29頁