第1回日本平和学会平和賞・平和研究奨励賞 受賞者

 20061月、第1回日本平和学会賞選考委員会(選考委員長横山正樹)において、以下のかたがたが第1回日本平和学会平和賞、同平和研究奨励賞の候補として選考されました。第17期平和学会第1回理事会において、選考結果の報告を受け、これを承認しました。

 第1回日本平和学会平和賞、同平和研究奨励賞の受賞者と受賞作は、以下の通りです。


1回日本平和学会 平和賞

新崎盛暉『沖縄同時代史 別巻 19621972 未完の沖縄闘争』(凱風社、2005年)をもって完結した、同著『沖縄同時代史シリーズ』(全10巻+別巻)に集成された、同会員の、40年余にわたる、沖縄を中心とする平和問題に関する研究評論活動。

琉球新報でも紹介されました。


1回日本平和学会 平和研究奨励賞 

川崎哲『核拡散-軍縮の風は起こせるか-』岩波新書、2003

佐伯奈津子『アチェの声-戦争・日常・津波-』コモンズ、2005


1回日本平和学会 平和賞

新崎盛暉『沖縄同時代史 別巻 19621972 未完の沖縄闘争』(凱風社、2005年)をもって完結した、同著『沖縄同時代史シリーズ』(全10巻+別巻)に集成された、同会員の、40年余にわたる、沖縄を中心とする平和問題に関する研究評論活動


1回平和賞 推薦理由 

2006316

1回日本平和学会平和賞選考委員会・第17期理事 藤原修


未完の平和主義

 新崎盛暉会員は、1960年代の前半期より今日に至るまで、沖縄を中心とする平和問題につき研究評論活動を行ってきた。昨年刊行された別巻『未完の沖縄闘争』と合わせて、全11巻に集成された40年にわたる評論活動は、まさにそれ自体、偉業と呼ぶにふさわしい。新崎氏のこの業績は、沖縄および日本における平和の実現という実践目標において一貫しており、日本における平和研究の一つの巨峰とみなしうるものである。もとより、そのような平和的実践志向のすぐれた評論活動は他にも存在するが、新崎氏がその中で傑出しているのは、同氏における、平和のための実践と評論活動との独特の結びつき方にある。

 新崎氏の40年におよぶ評論活動のすべては、その根本において、一つの哲学によって貫かれている。それは、民衆こそが歴史をつくるという、民衆の自己決定権に対する揺るぎない信念である。『沖縄同時代史シリーズ』の第8巻のタイトル「政治を民衆の手に」は、まさしくこの信念を表したものであり、このタイトルは、同巻で扱われている、戦後の日本で安全保障政策に関してはじめて民衆が自己決定権を行使した、1997年の名護市民投票に由来している。その頃には「住民投票」という政治手法はめずらしいものではなくなっていたが、すでに1971年の沖縄返還協定の批准に際して新崎氏は、「沖縄の運命を決定するにあたって、沖縄住民に最優先的に選択権を与えよ」と、当時にあってはきわめて斬新な住民投票の主張を行っていた。(『未完の沖縄闘争』491頁、504506頁)しかし、新崎氏のこの民衆の自己決定権に対する一貫した信念は、「民衆は常に善をなす」などといったナイーブな民衆観とも、「民衆」の名のもとに自己の政治信条を押し付ける「前衛」の高慢さとも無縁である。新崎氏の民衆の哲学とは、民衆は、さまざまな苦難に直面するなかで、諦め、日和り、あるいは判断を誤るという、民衆についてのきわめて現実的な認識に基づきつつ、なお、彼らはそうした中で、真の自己利益とあるべき社会像を学びとり実現していくという、民衆への信頼を、政治判断の最後のよりどころとする立場である。そのような民衆の哲学に立脚する新崎氏自身の立場を、同氏は、「沖縄民衆運動の伴走者」と呼ぶ。(同書9頁)この「伴走者」という言葉は、民衆運動から学び、彼らとともに、あるべき社会の実現をめざしつつ、しかし、同時にそれから距離を置いて、常に矛盾した複雑な側面を持つ民衆運動に、内外の情勢の的確な分析を通じて方向性を与えようとする、自らの方法・役割を巧みに表現したものである。そしてこの言葉は、研究と実践の一体化という、平和研究の本来のあり方そのものをも表現しているといえよう。

 この新崎氏の民衆の哲学が凝縮した形で現れているのが、1950年代の米軍の暴力的な土地接収に対する伊江島農民たちの闘いに関する彼の論評である。阿波根昌鴻に代表されるこの伊江島農民の闘いは、戦後日本の平和運動において、唯一ガンジーやマーチン・ルーサー・キングのそれに匹敵する市民的不服従=非暴力抵抗の実践例といってよいものであるが、新崎氏は、単に彼らを称揚するだけではない。伊江島の農民たちも、米軍の暴力に直面した当初は、弱い立場におかれた少数者の常として、「内地の皆様、・・・どうぞ、われわれを救って下さるようお願い申し上げます」との他力本願の叫びを上げていた。しかし「内地」はもとより、教会、寺、大学、立法府という「沖縄中の偉い人」たちがいずれも頼りにならないことを知ったとき、彼らは、自らの力に頼むほかないことを悟り、高度の倫理性と創造的な方法をかね備えた、自立した闘いを自らのものにしていったのである。(同書370373頁)新崎氏は、こうした、民衆が闘いの中で自信と誇りを身につけ、歴史の担い手に成長していく過程に注目する。

 この伊江島の闘いが、新崎氏の民衆の哲学のミクロコズムを示すものとすれば、沖縄返還前後の日本・沖縄関係に関する彼の評論は、そのマクロコズムに相当し、かつ同氏の最も重要な貢献にあたる。新崎氏の強みは、この一貫した民衆の哲学に加えて、日本と沖縄両方の視点から、戦後日本の平和問題を考究した点にある。新崎氏の全評論を貫く核心的な主張は、平和憲法に象徴される日本本土の「平和主義」なるものは、占領期におけるその成立以来、沖縄における軍事的な犠牲によってのみ可能であったものであり、日本本土の平和がその実を伴うものであるためには、米国の軍事的植民地としての沖縄の解放が必要であり、また沖縄の平和と自立のためには本土側の平和主義の貫徹が不可欠だというものである。1969年の評論で新崎氏は次のように述べている。

 「沖縄を除外して成立した『日本国』憲法は、沖縄における平和主義の否定、民主主義の否定、人権無視のうえに、平和主義、民主主義、人権擁護といった理念を強調するという矛盾した構造を持っていた・・・平和憲法は、警察予備隊の創設などによって徐々に「空洞化」されていったのではなく、成立当初から、沖縄を欠落させることによって、沖縄の欠落を意識しなかったことによって、というよりも、沖縄を除外することを不可欠の条件とすることによって、すでに『平和』憲法の名に値しなかったといえば、いいすぎになるであろうか。/少なくとも、平和憲法の諸理念は、すでに確立された、まもられなければならない価値ではなく、沖縄の分離と軍事支配を否定することを通してのみ確立されうる価値であるということができるであろう。」(傍点原文のまま。同前343344頁)

 このような構造的沖縄差別に関し、特に問題となるのが、本土で「平和主義」をとなえる革新勢力と、沖縄の民衆運動とのすれ違いである。(同書445456頁、479480頁など)1960年代初めまでの沖縄民衆運動では、ナショナリズムに寄りかかった「祖国復帰」運動が主流であったが、沖縄がアメリカのベトナム戦争遂行の拠点となり、日本政府が安保体制強化の一環として沖縄返還政策に乗り出した頃、沖縄の民衆運動は、復帰の内実を問う「反戦復帰」への質的転換を示すようになる。(同書292頁、302頁以下)新崎氏は、この過程の分析において、おなじ「平和」や「ナショナリズム」の言葉で表現されていても、沖縄と本土でそれらの内実が著しく異なることを指摘する。(同書282285頁)そして、沖縄の復帰に向けて似て非なる主張が複雑に交差する中で、各政治主張の性格や歴史的なポジションを鮮やかに解析していく。(同書203219頁、247268頁など)新崎氏のこの透徹した認識は、沖縄の民衆運動のもつ、米軍支配下における無権利状態の中での民主的諸権利獲得闘争という性格を、同氏が常に意識していることに由来しており、そのことが彼の分析眼をブレのない確かなものにしている。(同書45頁、286頁、430頁)しかし、「反戦復帰」を自覚しはじめた沖縄民衆運動に対し、本土の「平和主義」は応えることはできなかった。安保体制強化の手段として実現された沖縄返還をもって、戦後日本の「政治の季節」は終わる。基地問題に集約される沖縄に対する構造的差別は、1995年、少女の痛ましい犠牲をきっかけに、沖縄民衆運動の力によって再び国政上の課題になるが、それから10年、沖縄の基地は復帰前と同様、微動だにしないままである。

 新崎氏の評論シリーズの最終巻となった、沖縄復帰前の最初期の評論集のタイトルは、「未完の沖縄闘争」であり、このタイトルに込められた一つの意味は明白である。すなわち、同書が扱っている復帰前において、沖縄民衆運動が求めた平和と人権、自立は、復帰後30余年を経て、いまだ実現からはほど遠い。しかし、このタイトルには、もう一つの意味を読み込むべきであろう。すなわち、沖縄民衆運動の伴走者としての新崎氏が、一貫して強調してきたことは、沖縄問題とは、日本の平和問題の一部ではなく、日本の平和問題そのものだということである。したがって、いかに沖縄が自立した運動を形成しえても、これに呼応する真の意味での平和主義が本土に成立しなければ、沖縄の平和は実現しえないし、また沖縄の平和なくして日本全体の平和もない。「未完の沖縄闘争」に対応するものは、平和憲法を看板に掲げたまま眠りこけてしまった本土の「未完の平和主義」である。1995年以来、再び異議申し立てをはじめた沖縄民衆運動に対して、今日、米軍の世界的再編の一環として、装いを新たにして基地が沖縄に封じ込められようとしている。その新たな闘いの最前線となっている沖縄・辺野古を、本土国民は、大多数の平和研究者を含めて、高みの見物をするのみである。いま、問われているのは、平和憲法を改正するかどうかではない。そもそも戦後日本の「平和主義」なるものは、自らの足で立っているのかどうかが、戦後60年来、今日に至るまで問われ続けているのである。日本の平和主義とは、ホンモノ(faith)なのか、見せかけ(fake)にすぎないのか。辺野古の海での闘いが問うているのは、日本におけるこの未完の平和主義である。新崎氏への平和賞の授与は、同氏の受賞を通して、辺野古の闘いにエールを送るためではない。問われているのは、日本の平和運動の伴走者たるべき日本の平和研究が、自らの最も基本的な課題に取り組んでいるかどうかである。これまでの日本の平和研究に対する反省と今後の再生への思いを込めて、第一回の平和賞の対象として、新崎氏の積年の業績にすぐるものはないと確信する。


1回日本平和学会 平和研究奨励賞

川崎哲『核拡散-軍縮の風は起こせるか-』岩波新書、2003


1回平和研究奨励賞推薦理由 

2006223

1回日本平和学会平和賞選考委員会・第17期理事 藤原修


 本書は、核兵器をめぐる現状とこれに対する核軍縮の動きを包括的に解説した、核兵器問題に関する啓蒙的入門書である。一般市民向けに、内容はきわめて平明な文章でコンパクトにまとめられているが、核兵器問題の基本的な論点が網羅されていて、しかも、そのレベルは十分に専門的で高度であり、この種のテーマを扱った啓蒙的解説書として、おそらく今日最もすぐれたものと言ってもよいであろう。

 本書の強みは、著者の川崎会員が、軍縮NGOで活動する中で収集し蓄積した知識と経験をフルに活用していることによる。一方で著者は、明確に市民的反核平和運動の立場によりつつ、アメリカが「ならず者国家」などへの核拡散に、新型核兵器の開発や「有志連合」で対処しようとすることが、アメリカを含む世界的な核兵器の拡散という新たな危機を生みだしていることを明らかにしている。特に、テロリストや「ならず者国家」の脅威の封じ込めという、一見大義名分を持つアメリカの不拡散政策が、実は、核兵器問題の普遍主義的で公平な対処を遠ざけているとの分析は重要である。(本書163頁)他方で著者は、国際的なNGO活動を通じて知り得た、新アジェンダ連合などの核軍縮の新たな取り組みの動きを具体的に伝えており、例えば、NPTに関する各国の履行状況の報告書書式を統一化して客観的に検証できる形を持たせようとする提案など、興味深い。(同142頁)すなわち、本書のよさは、核兵器を取り巻く状況が、冷戦期の米ソ二極構造に比べて、冷戦後において複雑化し分かりにくくなっている中で、核兵器そのものが人類社会に対する脅威であるとの軸足を外すことなく、しかしまた単なる情緒的なスローガンに陥ることなく、豊富な具体的データを駆使して、核兵器をめぐる今日的問題状況を的確かつ明快に浮き彫りにしていることにある。この意味で、本書は、平和の実現に対する研究上の寄与という、平和研究のすぐれた実践例と評価しうるものである。

 そして、著者が本書を完成するに至った背景には、昨年創立10周年を迎えた日本で初の調査研究型の市民的軍縮NGOである「ピースデポ」で、著者が中心スタッフとして活動していたことがある。すなわち、本書には、反核運動の長い歴史を持つ日本でようやく形成された本格的な市民的軍縮NGOが生みだした成果という側面がある。研究と運動という、日本ではいずれかに分離してしまう傾向の強かった二つのそれぞれに困難な営みを、両立させすぐれた市民的啓発の書を世に送ったという点で、川崎会員のこの業績は、日本の平和運動、平和研究の一つの画期を表すものであり、本学会最初の平和研究奨励賞にまことにふさわしいものである。


1回日本平和学会 平和研究奨励賞

佐伯奈津子『アチェの声-戦争・日常・津波-』コモンズ、2005


1回平和研究奨励賞推薦理由 

2006223

1回日本平和学会平和賞選考委員会・第17期理事 藤原修


 本書は、スマトラ島北部のアチェにおける1990年以降のインドネシア国軍による、暴行殺人、破壊、略奪、見せしめの死体遺棄などのおびただしい人権侵害の実態を、女性を中心とする被害当事者の生の声を通じて明らかにしたものである。著者の佐伯会員は身の危険を冒しつつ現地に入り込み、土地の人々との長年にわたる腰を据えたつきあいを通じて、この衝撃的な非人道的事態を明るみに出しており、その意義はきわめて大きい。

 したがって、本書は学術書ではなく、むしろ戦争ルポに近いジャーナリスティックなものであるが、なお本書は、平和研究における貴重な貢献と評価すべき内容を備えている。本書の大部分は、暴力被害者の証言によって占められており、そのつなぎを著者の現地での見聞が埋めていて、分析的、理論的な叙述はほとんどない。にもかかわらず本書は、全体を通じて、平和研究における根本課題である「暴力とは何か」「平和とは何か」というテーマに正面から向き合ったものになっている。


 まず、著者は、暴力の重大性は、戦争や紛争で一般に注目される「数」で表すことはできないと言う。(本書1645頁)このこと自体はしばしば指摘されることであり、問題は、では暴力の持つ意味をどう明らかにするかである。平和研究者は、「暴力」や「平和」についてあれこれと抽象的な定義を行ってきた。紛争については、「死傷者」という何の抵抗もなく扱える言葉で被害が表現される。しかし、それでは、「暴力」が個々の被害者たちにとって何を意味するのかは決して見えてこない。佐伯会員は、大部分の戦争ジャーナリストのような、一過性のフィールドワークやインタヴューでものを書いておしまい、というのではなく、現地に家を借り、自らの「故郷」のごとくアチェに身を寄せ、犠牲者たちの目線で、「暴力」とは何かを明らかにしようとしている。例えば、著者のNGO活動の同志であったアチェの人権弁護士が虐殺され、その腐乱死体の悪臭に接したとき、著者は、「人間があのような臭いを発することは、絶対に許されない」と感じる。(同124頁)著者は五感のすべてを通じて「暴力」の意味の奥深くに入り込んでいく。そして悩む。民衆は一方的に暴力にやられるだけではない。これに反撃する武装抵抗組織を支援する。この狭間で「密告者」にさせられる者も出てくる。そして、武装組織による民衆被害も生じる。さまざまな「暴力」の中で、いかに平和を実現しうるのか、著者にも容易に見えてこない。

 著者の研究はその重要な部分において未完である。しかし、物事を上から見下ろして「図式化」して説教を垂れる、ありがちな平和研究とは全く無縁なところで、著者は、守るべきかけがえのない「日常」を持つ民衆の視点で、「暴力」や「平和」の本質をわしづかみにして読者に投げかける。本書は、平和研究を分かったつもりでいた者を打ちのめす。このような著者にこそ、平和研究奨励賞はふさわしい。