ガルトゥング平和学の刷新ポイントはどこか? ―惑星平和学の時空論的展開のための試論―

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日本平和学会2019年度春季研究大会

 

ガルトゥング平和学の刷新ポイントはどこか?

―惑星平和学の時空論的展開のための試論―

 

創価大学

前田 幸男

 

キーワード:ヨハン・ガルトゥング、構造的暴力、緩慢な暴力、遅行性、垂直性、惑星平和学

 

 

はじめに―ヨハン・ガルトゥング「構造的暴力」概念の限界

 本報告では平和学の父と呼ばれるヨハン・ガルトゥングが提示した基本概念である暴力の3類型(直接的・構造的・文化的)の中で中核を担っている「構造的暴力」概念の限界を指摘した上で、別の分析視角を提案する。この構造的暴力の概念には、1960年代に世界を席巻した構造主義思想の含意がついてまわる。ガルトゥングの議論は「平和とは関係性である」として、主体間の関係性についてのカップリングの考察をするところに特徴の一つがある。構造的暴力の概念に対して、その初期からすでに批判がされてきた一方で(武者小路 1975)、アクター間に存在する直接的暴力と構造的暴力は、様々なヴァリエーションに分類されており(Galtung 2013)、諸暴力との関係の中で平和のあり方を理解する上では有用性があった。ただし、これまでのガルトゥングの暴力の3類型や消極的/積極的平和のフレームワークは、主に人間(個人であれ集団であれ)の間の紛争解決に焦点が当てられていることがほとんどだった。言い換えれば、こうした問題設定下では、ヒトと非ヒトとの平和的関係性の構築という論点は、後景に退いていたことを意味する。

 

1.「緩慢な暴力(slow violence)」とは何か

上記を踏まえた上での本報告の目的は「なぜ構造的暴力の概念では、ヒトがヒト以外の生命やモノに対して振るう暴力がどのような推移の中で、不可逆的な暴力へと練り上げられていくのかについての掘り下げた検討と理論化が十分にできないのか」を示すことにある。近年のポスト・ヒューマンの一大潮流の中(Cf. Braidotti 2013)で、ヒトとヒトのみならず、ヒトとヒト以外の存在との共生的関係を平和学という研究領域において考えるためには、その射程を広げる形でのアップデートを避けることは不可能だといえる。

 そこで本報告では、人間が、他の人間・動植物・自然に対してどのような暴力を与えてきたのかを理解するために、「構造的暴力」概念ではなく、ロブ・ニクソンの「緩慢な暴力」(Nixon 2011)のフレームワークを採用する。「緩慢な暴力」を強調することで、見えない暴力だけでなく時間の経過によって根本原因とはかけ離れた暴力を生み出すような見えない変化によっても提示される困難やジレンマに目を向けることができる。ここで対象となりうる事象としては、例えば、チェルノブイリややフクシマ事故後の放射能の蓄積と拡散・メキシコ湾原油流出事故のような深刻な環境負荷・ネオニコチノイド系化学物質の使用によるミツバチの大量死、マイクロプラスチックの海洋への堆積による生物種の絶滅の危機、そしてもちろん温室効果ガスの大気中濃度の上昇によって付随する諸危機といった諸問題がある。この「緩慢な暴力」という概念により、近年経験している地質学的認識における根源的な変化にも、またどんなにわずかな変化であっても、時間の技術的経験の変化という視角からも対応が可能になる。

 

3. 人類による化石燃料の抽出がもたらした時空認識の修正

 上記のように、ロブ・ニクソンは「緩慢な暴力」の議論を通して、平和ならざる状況を炙り出すことを提唱しながら、これまであまり注目されてこなかった「時間」にわれわれの注意を向けさせる。時間というとき、そこでは人々の意識には上り難い些細な現象が、遅れつつも、深刻なダメージを与えるケースを射程にいれてくる。しかし、彼が時間に注目したことは革新的だった一方で、緩慢な暴力というものが空間的にも捉え返すべき側面がことは指摘しておかなければならない。それが「垂直性」である。

時間:遅効性を伴って発生する命に対する暴力をどう認識するか(遅行性)。

空間:人間の活動領域が縦に伸びたことで加わった新しい暴力をどう理解するか(垂直性)。

 この2つの視角に依拠しながら、エネルギー創出に使用する天然資源(化石燃料)の採掘が生命にどのような暴力を加えてきたのかについて、本報告ではサウジアラビアとナイジェリアのケースに注目することで、問題の所在を明らかにし、平和学を惑星平和学として発展させるための試論を行う。

 

おわりに―マテリアルな状況変化というテーマに平和学はどう向き合うのか?

 すでにローマ法王フランシスコ(2016)は回勅の中で、人間の共同体の中だけで諸問題を捉えないよう明確な立場表明をしたことが象徴的であるが、世界の主要課題は「惑星とヒトの共生の問題」というフェーズへと向かい始めている。それとは対照的に、公害や核兵器をはじめとするテクノロジーと人間の関係性に関する文理融合型テーマを得意とするはずの平和学の、惑星との平和的関係を切り結ぶための研究面での立ち遅れは注目に値する。惑星平和学化に向けた課題の指摘を通して、そのキャッチアップをはかりたいが、その上で障壁となる要因があるとすれば何なのかを考える機会ともしたい。

 

参考文献

Agathangelou, Anna M. 2016. "Bruno Latour and Ecology Politics: Poetics of Failure and Denial in IR." Millennium: Journal of International Studies 44(3): 321 –347.

Nixon, Rob 2011. Slow Violence and the Environmentalism of the Poor (Cambridge, Mass: Harvard University Press).

教皇フランシスコ 2016.『回勅 ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』カトリック中央協議会

武者小路公秀 1975.「国際学習過程としての平和研究-新しいメタ・パラダイムの提唱」、日本国際政治学会編『国際政治』54号